毛利輝元が関ヶ原へ参陣しなかった3つの理由を紹介!大河ドラマ『どうする家康 第43話』

引用:https://www.nhk.or.jp/ieyasu/

大河ドラマ『どうする家康 第43話』では、毛利輝元関ヶ原へ参陣せず、東軍率いる徳川家康の勝利に終わってしまいました。

なぜ、毛利輝元大阪城を出て、関ヶ原へ参陣しなかったのか?その理由について詳しく紹介しましょう。

大河ドラマ 『どうする家康』のキャスト

どうする家康に登場する人物や俳優たちは、以下の通りです。

徳川家

豊臣家

その他

大河ドラマ『どうする家康 第43話』のストーリー

1600年9月14日、ついに関ヶ原近くで、東軍率いる徳川軍と、西軍率いる石田軍が対峙しました。

東軍の徳川家康は「秀忠は見捨てる。このまま関ヶ原へ進めば、石田三成は城から出てくるはず」

石田三成は、その知らせを聞いて「くいついてきたぞ」と不敵な笑みを浮かべますが、先に小早川秀秋が松尾山に布陣をしいて、どちらの軍にも味方できるようにしていました。

いよいよ、関ヶ原で、両軍合わせて、15万もの大軍が集まり、徳川家康は桃配山に布陣して、その陣を守るのが徳川家康井伊直政福島正則藤堂高虎黒田長政がいました。

福島正則が先陣を切ろうとしていましたが、井伊直政が徳川こそ先陣を切らねばと抜け駆けをして、西軍に攻撃をしかけます。

吉川広家は、兵士たちに、のんびりと食事をさせて、後方にいる毛利勢はうごけませんでした。これが、のちに『宰相殿の空弁当』と言われるようになります。

徳川家康は、小早川秀秋が内応の約束を守ろうとしなかった事を知っても動じず、毛利・吉川が動かない所を見て、2万もの主力を前進させました。

小早川秀秋は、徳川の圧力を感じて、ついに東軍へ寝返り、一気に大谷隊に襲いかかり、大谷吉継は命を落としました。

西軍は総崩れとなり敗退していき、勝敗は決しましたが、島津義弘は的中突破をこころみます。

徳川家康は「放っておけ」と命じますが、井伊直政が血気に流行り、島津義弘を追撃していきました。島津隊は、義弘を逃すために、捨て奸による一斉射撃で、その弾丸が井伊直政に命中!

西軍の多くの大名たちが、減俸となり、徳川に攻撃をしなかった毛利でさえ領土を減らされました。

石田三成は捕らえられ、斬首されてしまい、これで徳川家康が望んでいた戦のない世が、いよいよ近づいてきたのです!

毛利輝元関ヶ原へ参陣しなかった3つの理由』

毛利輝元が、大阪城から出ようとせず、関ヶ原へ参陣しなかったのは、少なくとも3つの理由があったと考えられます。

まず、1つ目が、五奉行増田長盛が徳川に内通しているという噂です。こんな噂が流れていたら、優柔不断の毛利輝元では、おいそれと関ヶ原へ参陣できなかったでしょう。

2つ目が、淀君豊臣秀頼を出陣させようとしなかった事です。石田三成は、豊臣秀頼の出馬や、毛利輝元の出陣を何度も願い出たのに、淀君が反対してしまったので、毛利輝元も動けなかったはずです。

このドラマでは、淀君はしきりに豊臣秀頼毛利輝元を出陣させようとしていましたが、これはフィクションでしょう。

3つ目は、毛利輝元が、このどさくさに紛れて領土を拡張したいという野心があったと考えらます。

関ヶ原で、石田三成徳川家康と戦わせて、その間に東軍方の大名に襲いかかる隙がないか、うかがっていた可能性があり得ますね。

大河ドラマ 『どうする家康 第43話』のまとめ

第43話では、関ヶ原がよく描かれていて、まぁ満足できる内容でした。できれば、小早川の陣に鉄砲をうちかけるシーンも見たかったのですが、これは撃たなかったという説もあるので仕方ないでしょう。

それにしても、北川景子さんが演じる淀君の迫力はなかなかすごかったです。

豊臣が徳川に勝てる好機は、この関ヶ原でしかなかったと言えるので、かなりもったいない結果になってしまいました。