豊臣秀頼が19歳になるまで徳川家康が動かなかった理由!大河ドラマ『どうする家康 第44話』

引用:https://www.nhk.or.jp/ieyasu/

大河ドラマ『どうする家康 第44話』では、豊臣秀頼が19歳になると、徳川家康が「時は満ちた」と言って、ようやく動き出しました。

なぜ、徳川家康は、豊臣秀頼が19歳になるまで、動こうとしなかったのか?その理由について詳しく紹介しましょう。

大河ドラマ 『どうする家康』のキャスト

どうする家康に登場する人物や俳優たちは、以下の通りです。

徳川家

豊臣家

その他

大河ドラマ『どうする家康 第44話』のストーリー

関ヶ原の合戦が終わり、徳川家康征夷大将軍となり、江戸幕府が開き、新たな時代が始まろうとしていました。

徳川家康のもとに、孫の千姫がやってきて「じじ様、千は、大阪へ行きとうありませぬ」と言ってきたので、驚きますが、そこに義理の娘・お江もやってきました。

「申し訳ありませぬ、父上」と謝りますが、千は「あそこは恐ろしゅうございます」と訴えるので「何が怖い?そなたの母の姉さまの家ですぞ」

徳川家康は、孫には優しく接してあげたのに、千姫が大阪へ行った後に、秀忠が「千は、うまくやっておるでしょうか?」と言ってきたら「最初に心配するのが、自分の娘か?」と叱責します。

「私は、両家のことを心配して」「お前は、関ヶ原から、何も成長していない」「あれは、榊原や本多も」「人のせいにするな!お前のせいじゃ」

秀忠が立ち去った後に、徳川家康のもとに、榊原康政がやってきて「この康政、最後の諫言を致します。皆の前で、あのように叱りつけたら、秀忠様の誇りを傷つけます」

「殿もあのぐらいの年頃は、どれだけ頼りなかったか」「しかし、お前たちがいてくれた。秀忠を叱りつける者が他にいるか?」

徳川家康は、豊臣恩顧の大名たちが再び、秀頼のもとに団結しつつある事を憂慮していました。

しかし、徳川秀忠がようやく、関ヶ原の遅参は自分に責任がある事を認めると、皆の前で、徳川家康は「世の中は理不尽な事だらけよ。事がうまくいけば家臣を讃えよ、事がうまくいかない場合は自分が責任をおえ」

そう言って、徳川家康は、1年後、征夷大将軍を秀忠に譲る事を明言して『私が、将軍に?』と驚かれます。

しかし、大阪では、淀君が「将軍職を息子にゆずるという事は、徳川の天下にするつもりか!」と激怒してしまうのです!

豊臣秀頼が19歳になるまで徳川家康が動かなかった理由』

徳川家康は、関ヶ原の合戦が終わってから、豊臣を滅ぼすまで14年もかけました。

そして、豊臣秀頼が19歳になるまで動かなかったのは、ゆっくりと時間をかけて、大名たちの力をそぐ必要があったからです。

徳川家康は、天下普請を行い、江戸城(江戸)・駿府城駿河)・名古屋城尾張)・高田城(越後)・丹波亀山城(京)など、数多くの城を大名たちに作らせて、力をそぎました。

さらに、これらの城は、江戸城から、大阪城を攻めるための準備であり、江戸の街を開拓する時間を必要だったと考えられます。

さらに、朝廷への工作にも時間をかけて、ゆっくりと征夷大将軍になり、次に秀忠に将軍職をゆずり、大名たちに徳川に忠誠を誓わせる必要があったので、時間が必要でした。

そして、豊臣秀頼が若年であれば、挑発しても、動かなかった可能性がありますが、大人になれば、豊臣方も強気になって応戦するはずという計算もあったと考えられます。

そういった色々な計算があって、徳川家康豊臣秀頼が19歳になるまで動こうとしなかったのでしょう。

大河ドラマ 『どうする家康 第44話』のまとめ

第44話では、老練な徳川家康らしい振る舞いが見えて、満足できる内容でした。あんなに時間をかけて、途中で病気で亡くなったら、どうするつもりだったのかと思う方は多いかもしれません。

しかし、徳川家康は健康オタクとも言えるほど、健康に気を使い、自分で薬を作っているほどだったので、長生きする自信があったのでしょう。

これから、徳川家康がどのようにして、豊臣を追い詰めていくのか?期待したいですね。