三方ヶ原の戦いで負けた4つの理由!大河ドラマ『どうする家康 第16話』

引用:https://www.nhk.or.jp/ieyasu/

大河ドラマ『どうする家康』で、徳川家康三方ヶ原の戦いで、武田軍に負けてしまいますが、その理由は兵力差だけではなかったので詳しく紹介します。

大河ドラマ 『どうする家康』のキャスト

どうする家康に登場する人物や俳優たちは、以下の通りです。

松平家(のちの徳川家)

今川家

 

織田家

武田家

その他

大河ドラマ『どうする家康 第16話』のストーリー

徳川家康は、武田信玄が、自分の領国を切り取ろうとしている事を知って、大久保忠世たちに「越後に書状を送るというのは、どうじゃ?」と告げると、家臣たちから「それは危ういかと存じます」

越後の上杉謙信は、甲斐の武田信玄の宿敵であり、牽制するためには必要と考えて「書状を送るだけじゃ」と言いますが、家臣の不安は的中してしまい、その書状は武田信玄の手に渡ってしまいました。

徳川家康は、武田家に人質として送った身内が、ひどい仕打ちを受けていると聞いて、忍びを使って、取り戻そうとします。

服部半蔵たちの死の物狂いの奮戦のお陰で、久松源三郎を救出する事ができました。

しかし、久松源三郎は、他の者よりは優しく接してもらっているほうであり、甲斐の侍たちは、皆、凄まじい鍛錬をつまされていたのです。

その中でも、武田信玄の跡取りと目されていた、武田勝頼は厳しい鍛錬を積んでいて、周りを圧倒するほどの力を誇っていました。

武田信玄は、久松源三郎に「そなたの兄上(徳川家康)にことづてを伝えておけ。弱き主君は害悪なり、滅びたくなくば、我が家来となれ、手を差し伸べるは一度きりじゃ」と恫喝(どうかつ)に近い事を言い放ったのです。

武田信玄は、大号令を放ち、いよいよ徳川の領国に攻め入ろうとしますが、どうなってしまうのでしょうか?

三方ヶ原の戦いで負けた理由は兵力差だけはない』

徳川家康は、織田の援軍を合わせても、兵力が1万1000程度と言われていて、それに引き換え、武田信玄は2万7000〜3万5000ぐらいと言われていました。

今作では、桶狭間を再現すると息巻いていましたが、実は、兵力差は桶狭間ほど開いてはいませんでした(桶狭間は、織田軍2000〜3000・今が軍は3万5000ほど)。

それでは、なぜ三方ヶ原の戦いで負けたのかと言えば、武田信玄は、城を攻めずに、その前を横切って行き、徳川を挑発してしまいます。

徳川家康は、背後から攻め立てて、徳川のほうが高い位置に陣取っていて、高い所から駆逐しようと考えていました。

しかし、名将と言われた武田信玄が、これを見抜けぬ訳もなく、武田軍は徳川軍の動きを察知して、高い所に位置している所から、反転して、徳川軍に襲いかかりました。

徳川家康は、兵力が少ない事もあり、鶴翼の陣で備えましたが、後方には味方がいなく、かなり薄い陣形でした。それに比べて、武田軍は魚鱗の陣を敷いて、円を描くように、分厚い陣形だったのです。

徳川軍は、後方からの支援もないのに対して、武田軍は分厚い陣のため、後方から支援する兵が多くあり、苦戦を強いられてしまいます。

しかも、別働隊の武田勝頼が、徳川軍の横腹をついてしまい、徳川家康は大敗北を喫してしまいました。

このように、三方ヶ原の戦いで負けたのは、以下の4つが考えられます。

  • 徳川のほうが兵が少ない
  • 高い位置を陣取る事ができず、地の利を得られなかった事
  • 鶴翼の陣と魚鱗の陣で戦い合うも、かなり薄い陣で不利だった所
  • 武田勝頼の別働隊に横から攻撃された所

大河ドラマ 『どうする家康 第16話』のまとめ

徳川家康が、いよいよ三方ヶ原の戦いを始める事になりますが、鶴翼の陣は、そもそも多くの兵があってこそ、成功するものです。

兵が少ない状況で、鶴翼の陣で戦っても、なかなか勝てるものではありません。

今まで、鶴翼の陣を敷いて手痛い打撃を受けた戦は、他にまおって、それが『第4次川中島の戦い』や『関ヶ原の戦い』などが挙げられます。

兎にも角にも、三方ヶ原の戦いが、どのようにして再現されるのか期待しましょう。