石田三成が斬首されるのに干し柿を食べなかった理由!大河ドラマ『どうする家康 第41話』

引用:https://www.nhk.or.jp/ieyasu/

大河ドラマ『どうする家康 第41話』で、石田三成大谷吉継と一緒に話し合うときに、干し柿が置いてありました。

のちに、石田三成は斬首されるのに、干し柿を食べようとしなかったので、その理由について紹介しましょう。

大河ドラマ 『どうする家康』のキャスト

どうする家康に登場する人物や俳優たちは、以下の通りです。

徳川家

豊臣家

その他

大河ドラマ『どうする家康 第41話』のストーリー

徳川家康は、前田利長浅野長政大野治長などを処罰していくと、大野治長だけが敵意をむきだしに睨みつけます。

その様子を見て、徳川家康「うぅん?」と言いながら、ゆっくりと歩み寄りながら「死罪を命じなかったのは、我が温情と心得よ」と命じると、歯ぎしりをする思いで「はっ」と頭を下げて立ち去ります。

多くの者たちが立ち去った後に「狸は辛いのぉ」とつぶやくと、謀臣の本多正信から肩を守れながら「きばれやぁ、たぬきぃ、ぽんぽこぽぉん」と言われて「ふっ」と笑ってしまいました。

大谷吉継が「治部ぅ(石田三成)」と声をかけると、石田三成は「おぉ、刑部(大谷吉継)」と応えて、二人で、ゆっくりと話し合う事になります。

大阪城西の丸で、徳川家康が我が者顔で振舞っている様子を聞いて、複雑な表情を浮かべてしまいますが、それは淀君(茶々)も同じでした。

茶屋士郎二郎の息子によって、ウィリアム・アダムスを紹介されて、徳川家康は、異国と戦をせず、交易をするべきという話に「全くもって、その通りじゃ」と納得します。

その頃、奥羽では、上杉景勝が城の建築を勧めていると聞いて、徳川家康は「相手は五大老の一人じゃ、慎重に勧めよ」と、家臣たちに命じました。

しかし、上杉景勝の家臣・直江兼続から、挑戦的な書状・直江状が届き、ついに徳川家は大軍を率いて、奥羽に向かって出陣しようとします。

徳川家康は、鳥居元忠に「我らが留守の時に、動く者がおるやもしれぬ」と言うと「少しでも多くの兵を連れていきなされ、なぁに、ここは秀吉がこしらえた城じゃ」

二人は、これが最後の別れになる事を覚悟して、涙が流れるのをこらえるばかりでした。

ところが、徳川方が予想していたよりも、はるかに多くの者たちが、石田三成のもとに集まってきて、その者たちの中には、毛利輝元宇喜多秀家たちもいました。

上杉景勝の勢力も合わせると、豊臣恩顧の大名を合わせた徳川勢をはるかに上回る軍勢となったのです!

石田三成が処刑されるのに干し柿を食べなかった理由』

石田三成は、のちに徳川家康によって、処刑される事になり、近くのものにいた武士に「喉が渇いた」と飲み物を貰えないかと頼みます。

しかし、あいにく飲み物がないので「今は、これで」と干し柿を渡されると「それは体に悪い」と断ってしまいました。

なぜ、これから処刑されようとするのに、干し柿を断ったのかと言えば、君主から恩をかけられた以上は、最後の最後まで、命を惜しんで、恩を返さなくてはいけないと思ったからです。

石田三成は、処刑されると聞いていても、最後の最後まで、豊臣に恩義を返せる好機がないのか?諦めていなかったのでしょう。

大河ドラマ 『どうする家康 第41話』のまとめ

あまり歴史を知らない方は、徳川家康は、すべてを承知の上で奥羽に向かって出陣したと思いがちです。

しかし、それは大きな誤解で、まさか毛利輝元宇喜多秀家など多くの大大名までが、石田三成のもとに行くとは思っていませんでした。

それを証拠に、徳川家康は急いで、多くの大名たちに書状を書きまくって、少しでも多くの味方を増やそうとします。

石田三成は、のちに干し柿の逸話を残す最期でしたが、豊臣家にあっては『利』より『義』を重んじる数少ない忠臣だったと言えるでしょう。